teacup. [ 掲示板 ] [ 掲示板作成 ] [ 有料掲示板 ] [ ブログ ]

 投稿者
  題名
  内容 入力補助 youtubeの<IFRAME>タグが利用可能です。(詳細)
    
 URL
[ ケータイで使う ] [ BBSティッカー ] [ 書込み通知 ] [ 検索 ]


【意識調査】死刑制度に関して

 投稿者:大学生  投稿日:2014年 2月21日(金)01時58分36秒
返信・引用
  先進国には一般的に死刑はありません。
しかし、中国や日本や北朝鮮のような国には未だに死刑があります。
あなたは死刑制度に賛成ですか、反対ですか。

ご意見を下記2つの掲示板のいずれかで披露していただけたら幸いです。
できれば英語かスペイン語か日本語でお願いします。

Facebook page または 自由掲示板

ところで、死刑があると犯罪が増えたり治安が悪化する傾向が強いようでう。
犯罪の抑止力にならないどころか、死刑の存在ゆえに凶悪犯罪が増えます。
死刑を行うことで人間としてのモラルが低下するからでしょう。

死刑があると凶悪犯罪が増え、それでまた死刑の執行が増えます。
死刑を廃止しても、凶悪犯罪がそれによってゼロになるわけではないでしょう。
死刑を廃止して凶悪犯罪を減らすのは大切ですが、それでも若干発生する
凶悪犯罪にはどう対処すべきでしょうか。
 
 

9月28日付RION様投稿文への返信・・その2

 投稿者:竹本 護メール  投稿日:2008年10月 9日(木)01時08分32秒
返信・引用
    【 9月28日付RION様投稿文への返信・・その2 】


    *   *   *   *   *


  【貴投稿文】
【補足説明2への再反論】
すでに何度も述べています通り、【補足説明2】で述べられている内容は、すべて心理的強制説の主張内容及び、それに立脚(ないし示唆を得た)死刑存置論の主張内容です。
これに対しては、消極的一般予防論に懐疑的な学説が、規範の維持という点に刑罰の根拠を見出そうとしている(積極的一般予防論)のも指摘したとおりです。
さらに、抑止効果を副次的な効果とした、絶対的応報刑論も再評価されだしているところです。
これらは、威嚇効果というものを完全に否定するものではありませんが、それ「のみ」で刑罰を正当化するほどの論拠足りえないというものです。
200年以上の議論の蓄積がありますから、ここでいちいち反論するつもりはありません。

反論は死刑廃止論者がやればいいですし、さんざん出尽くした議論を、ここでまたわざわざ繰り返すのも賢明ではありません。
重要なのは、
・心理的強制説に加えられた批判(そのまま貴殿の理論に妥当する批判)に、まったく対応しきれていない
・抑止効果があることだけで正当化されるという論理の飛躍に気づいていない
・決して『人間心理の洞察に関する一般普遍的かつ常識的判断』とはいえない
をきちんと認識すべきだという点です。
今のままでは、「理論の内容が200年前で止まっている」と言わざるをえません。
心理的強制説に立脚するのであれば、心理的強制説(及び、これに依存する死刑存置論)に加えられた批判にすべて答えなければならないのです。


  【返信】
 200年前とはずいぶん歴史を遡られましたな。マリーアントワネットがギロチン台の露と消えた頃の話でしょうか。
 ただ、こういう風に相手(相手の論・説)を否定するために具体的根拠や実態性のない数値を持ち出す場合、その値が大きければ大きいほど相手を強く否定しており否定効果が大であると考え勝ちですが、値が大きくなるとそのぶん値自身が道化じみたものとなってきて肝心の主張が喜劇化してしまい説得力を弱めてしまう難もあります。
 せめて50年前と言って下されば私も多少の現実味を感じることもでき「そうかいな」と思うところもあるのですが。


 ま、それはともかくとして、
 貴兄が私に認識せよと主張されている
・心理的強制説に加えられた批判(そのまま貴殿の理論に妥当する批判)に、まったく対応しきれていない
・抑止効果があることだけで正当化されるという論理の飛躍に気づいていない
・決して『人間心理の洞察に関する一般普遍的かつ常識的判断』とはいえない
 の件についてお答えします。

 この3件の意味を一括して表現しますと
 「『死刑には本当に殺人(死刑相当殺人)を抑止する効果』はあるのかという問いに答えよ」
 ということだと思います。

 この件に関連する論稿本文における該当箇所は、
 イ、「第一章」の「一、死刑制度の制定と運用のための前提認識」の『5』における『「死刑制度の制定と運用のための第四前提認識」=「人間心理における最大の畏怖心理」』。
 ロ、「第二章」の「一、死刑制度の制定と運用の必要性」の『4』。
 ハ、「第三章」の「五、死刑制度成立のための前提判断に関する考察と死刑制度正当運営条件」の『2』。
 の3箇所となります。
 一度じっくりと読んでみてください。

 また、『死刑の威嚇効果や殺人意図に対する牽制力』に関しましては、「9月28日返信の【補足説明・2】」においてすでに答えておりますので、ご再読ご確認ください。


 さて、
 (1)
 「心理的強制説に加えられた批判(そのまま貴殿の理論に妥当する批判)に、まったく対応しきれていない」との指摘に関しましては、
 「心理的強制説の概念範囲」が不明確ですが、たぶん『死刑威嚇効果説(死刑には殺人意図者を威嚇し殺人を抑止する効果があるとの説)』のこととしてお答えします。

 人文科学と限らず自然科学の世界においてもそうですが、論者が『新説や新理論の提唱といったある主張性を持った論稿(論文)』を書く場合、その主張が未知のもの独創的なものであればあるほど既知の説や理論を信奉する関係者さらには外部の第三者からの批判・非難を受けることは常態的に起こることであり、そうした多方面からの参加者による甲論乙駁の議論や賛否の応酬が活発になされることは学説・学論の活性化や深化ひいては学問の進歩進展のためにも望ましいことであることは言うまでもありません。

 ここで、「筆者(論者)が『新説や新理論の提唱』といった未知の主張性を持った論稿を書く場合」における「筆者の読者に対する『最低限の執筆義務』」とは、
 申すまでもなく「みずからの主張を明晰に記述し主張趣旨を的確に読者に伝えること」であり、この作業が実行できておれば論稿作成作業としては合格していることとなります。

 この作業中においては、筆者は当然、反対者・批判者の存在とその反論や批判を意識しその反論内容・批判非難内容を想定しながら文意文章を推敲するわけですが、
 だからといって、こうした反論や批判に捕らわれてばかりいたのでは、肝心の本論の論述が不十分なものとなってしまいます。
 したがって、筆者のまず為すべきことは「反対者・批判者の存在とその反論や批判」をとりあえずは無視して『自論を完全な論稿として仕上げること』なのです。
 その後論稿は当然公開されることとなりますが、これを読んだ反対者・批判者等からはさまざまな反論や批判がなされるでしょうから筆者はその時点でこれに応答すればいいわけです。(ちょうど今私と貴兄が論を交えているように。)

 そういう執筆方法をとらずにいちいち批判者の仮想的批判非難に対応しての文章を書き加えたりしていたのでは、原稿量が膨らみさらには肝心の論旨の文節や筋が右往左往する事態ともなり、読者に論旨趣旨を的確に伝えることができにくくなる弊害が生じることともなります。

 したがってまた、自論を
 「理論体系を形成する程度の構成内容と分量(400字詰原稿で数百枚程度)を持ったまとまった原稿」
 として論述するに際しては、「論述趣旨が的確である論稿」を書くことができておりさえすれば、「批判にまったく対応しきれていない」としても論稿としては不適格ということにはならず、むしろ「批判にまったく対応しなかった」としてもなんら問題はないのです。
{ 注。論稿が「批判者の批判に回答する性格のものであるにもかかわらず適切な回答が為されていない場合」には貴兄の「批判にまったく対応しきれていない」との非難も当たっているでしょうが、私は小稿を『死刑正当理論の構築書』として書いたのであり「他者の批判非難に対する回答書」として書いたのではありません。}

 もとより論稿中において自論に対する批判非難を想定し相応の反論枠を設定してそこで『想定反論』を併記してもなんの問題もありませんし、間違っているわけでもありません。
 (自論の正しさを強調すべく反対者を想定論駁しておくのも説得技術の一方法と考えることもできます。小稿本文中にもそうした箇所は何箇所かあります。)

 つまり、貴兄のご批判は悪いものだとは思いませんが「まったく対応しきれていない」などと語気を強めて難じなければならないほどのものではないのです。


 (2)
 「抑止効果があることだけで正当化されるという論理の飛躍に気づいていない」との指摘に関しましては、

 はてさて「論理の飛躍」とはどういうことですかな。
 『論理』というものは必ず2個以上の命題(事実命題でも思想命題でもいいのですが)から構成され、論理の最小形態は例えば「AはBである」という形をとります。1命題でしかない「Aである」「Bではない」は前提もしくは結論であって論理ではありません。
 また、「AはBである。BはCである。ゆえにAはCである」という推論の仕方は『論理の形成形式としては完全』ですが、「AはBである。ゆえにAはCである」という推論の仕方は、いかに頭の中に「Aの次はB、Bの次はC」という意識があったとしても『論理の形成形式としては不完全すなわちまた「論理の飛躍」』です。

 貴兄のご指摘は「抑止効果があることだけで正当化される」という1個の命題のみをもって「論理の飛躍」としておられます。「論理の飛躍」と非難されるならば当該の命題の前にもうひとつ以上のなんらかの命題を置きかつこの命題を受けて「したがって『抑止効果があることだけで正当化される』という主張には論理の飛躍がある」と非難して頂きたいものです。
 前段の命題(貴兄の頭の中には設定されているのでしょうが)を省略していきなり『抑止効果があることだけで正当化されるという論理の飛躍に気づいていない』と言われましても、
 私としましては「ハテ、前段の命題はなんなのだろう」と思案せざるをえませんし、それが不明な以上「論理に飛躍あり」「気づいていない」とのご批判には答えようもありません。


 また、貴兄ご指摘の「抑止効果があることだけで正当化される」の件につきましては、
 はてさて、小稿本文中のいずこの章・項のいずれにおいて「(死刑は)抑止効果があることだけで正当化される」などと書いておりますかな。そんな文言なんぞどこにもないはずですが。

 申すまでもなく、【死刑】とは「国家が殺人犯(死刑相当殺人犯)を処刑する(殺す)」という『明確な殺人行為』であり、当然その行為は「いかに極悪非道な殺人犯のものとはいえ『人の命を奪うという厳粛な行為』」であるがゆえに『政治的社会的に正当な行為』でなければなりません。

 この『死刑制度や死刑行為の正当性』については、古来より学者間や巷間においてさまざまな『説』が唱えられてきました(私より貴兄の方がよくご存知かとは存じます)が、
 【公理命題死刑論】もその正当論・正当説の一ということになります。

 【公理命題死刑論】においては、
 「死刑を正当な政治的社会的行為とするためにはいったいどれだけの条件が必要なのか」との問いに対して、
 「『【死刑正当条件】としての13種の条件』が必要であり、国家においてこの13種の条件が同時的に満たされている場合にのみ『死刑制度の運営すなわち死刑執行行為』は正当な行為となる」
 と答えます。

 ちなみに、【死刑正当条件】とは、

一、第一死刑正当条件=「第一死刑相当条件=事実的条件」
二、第二死刑正当条件=「第二死刑相当条件=意図的条件」
三、第三死刑正当条件=「第三死刑相当条件=情状的条件」
四、第四死刑正当条件=「第一死刑制度正当適用条件=自由選択条件」
五、第五死刑正当条件=「第二死刑制度正当適用条件=直接承諾条件」
六、第六死刑正当条件=「第三死刑制度正当適用条件=直接制御条件」
七、第七死刑正当条件=「第四死刑制度正当適用条件=監視制御条件」
八、第八死刑正当条件=「第一死刑執行正当主体条件=事実究明能力条件」
九、第九死刑正当条件=「第二死刑執行正当主体条件=審理裁決能力条件」
十、第十死刑正当条件=「第三死刑執行正当主体条件=適用強制能力条件」
十一、第十一死刑正当条件=「第一死刑制度正当運営条件=運営目的条件」
十二、第十二死刑正当条件=「第二死刑制度正当運営条件=知的心的状態条件」
十三、第十三死刑正当条件=「第三死刑制度正当運営条件=確定的公知条件」

 の十三種の『事実的・社会的・政治的な条件』をいいます。
 { 詳細は論稿本文の『第三章・死刑正当条件』を参照。}

 すなわちまた、【公理命題死刑論】においては、
 「これだけの条件(13条件)がすべて同時的に満たされて初めて『死刑という殺人行為』が正当化される」
 と主張しているのであって、けっして貴兄が指摘されるように「抑止効果があることだけで正当化される」と単純に論・説を唱えているものではありません。
{ 注。貴兄のご指摘の真意を私の方が誤解釈しているかも知れません。その場合はご容赦下さい。}

 (3)
 「決して『人間心理の洞察に関する一般普遍的かつ常識的判断』とはいえない」とのご指摘に関しましては、
 これも「主語」が欠落していますので私が勝手に主語を加えて、
 「『死刑には殺人(死刑相当殺人)を抑止する効果があるという考え』は決して『人間心理の洞察に関する一般普遍的かつ常識的判断』とはいえない」
 ということとさせて頂きますが、
 この件に関しましては9月28日付の【補足説明・2】において大略の説明を行なっているはずですのでご再読頂きたいと存じます。



    *   *   *   *   *


   【貴投稿文】
内容的には理解しております。
そして、もちろん、現状の日本国に適用可能な死刑存置論の必要性も理解しております。
「正当条件不足のために死刑正当理論としての公理命題死刑論を適用することのできない『非契約国家としての日本国』といえども、当該社会(日本国社会)においてなによりも『殺害意図者によって殺されようとしているもしくはこれから殺されるかも知れない国民の命』を守るためには『その理論準用行為として条件水準を下げてでも死刑制度の制定と運用に関する正当性主張を行なうこと』は認められるべきである」
というのも、同意できます。
ただし、「民主主義国日本において適用可能な死刑存置論」に関する限り、「公理命題死刑論」とは全く無関係に主張しうる内容にまで理論的後退がなされています。
つまり、「第八公理命題」から導かれる条件を「必要条件」としなくなった時点で、貴殿の理論の唯一の独自性、したがってまた、「ほぼ全てが既存の概念・理論で説明された主張」のうちの「まったく新しい発想」が加えられた残部まで放棄することに他なりません。
しかも、体系そのものの存在価値すら失わしめる危険を包含しています。
というのも、緊急避難的に、あるいは必要性に駆られて現代の日本にも理論が適用可能ということは、「契約国家なる独創的国家体系」の構築が「必要不可欠ではない」ことを認めることになります。(すなわち、「必要条件」ではない)
完璧を期すためには、契約国家の成立が「理想」なのでしょうが、現代の日本で「正当化できるかできないか」が問われているのであって、仮に「正当化できる」のであれば、それが理想的かどうかは、もはや「単なる理論提唱者の自己満足」の領域になってしまいます。
現代の日本でも正当化可能なのであれば、契約国家とは、「わざわざ想定する必要のない国家」だということです。(頭の体操くらいにはなるかもしれませんが、理論としては無用の長物です)
貴殿は、現代日本への適用は、理論の応用・ないし派生的理論くらいに位置づけておられるのでしょうが、それにとどまらず、「公理命題死刑論」に基づく必要性のない、ただの「威嚇刑論に基づく死刑の正当化根拠」になり下がっています。
さらに、「認められるべきである」という価値判断に基づき、理論の修正を行うわけですから、「いっさいの主観的推論も主張も含まない『客観論理のみ』からなる死刑正当理論体系」という、貴殿の目指す出発点すらも排除することになります。

繰り返しますが、決してそれが「間違っている」という意味ではありません。(それが理論として説得的かどうかは別論)
威嚇効果というものも、ひとつの説明としてありうるのです。
法律論に価値判断が含まれるのも当然です。
ただし、「はじめに」から第三章までに述べられたことを、全て無に帰すことに他なりません。
「ほぼ全てが既存の概念・理論で説明された主張」が「完全に既存の概念・理論で説明された主張」になるのです。
理論の体系には、修正可能な部分と、修正しては根本から崩壊する核心部分があります。
現代日本での正当化は、明らかに後者を修正するものです。
したがって、結論的には、
1.現代日本では死刑を正当化することは許されないと結論付ける
2.「契約国家の創設」に至らずとも契約主義を貫徹しうる、実現可能な条件を新たに提唱する
3.契約主義であることを放棄し(公理命題死刑論を放棄する)、「威嚇刑論者の一人」として満足する
の3つの選択肢しか残されていないのです。
貴殿の理論は、「日本国が『契約国家』となるための現実的な方策」を提唱することで初めて完成するものと思われます。
そして、現代の日本では死刑は正当化できない(だからこそ、契約国家に移行すべき)という結論を維持すべきでしょう。


   【返信】
 この件に関しましては、全体的に「9月22日付の貴投稿文の最終部分のご趣旨にほぼ類似した趣旨」を述べておられますので、私の回答もまた【補足説明・4】をご再読して下さいと言うほかありません。

 ただ付記するならば、
 【公理命題死刑論】は「【契約国家(例えば『日本契約国』)】において適用されて初めてその『死刑正当理論』としての理論的な意味を成立させうる理論」であり、『民主国家(例えば『日本国」)』においては純理論的には適用不適な理論です。
 もとより、この事実は創案者たる私自身においても十分に分かっているところであり、したがって純理論的に詰めてみれば、貴兄のご指摘に至るのは当然の結果と言えます。
 ただし、こうした矛盾的事態に至るからといって【公理命題死刑論】が「死刑正当理論」としての価値を持たないということにはならないと思います。

 すなわち、人類社会はいずれ現在の「民主主義社会」を卒業して『契約主義社会』へと進化を遂げますから。
 つまりは、現在の『日本国』はいずれ【日本契約国】となりますから。


   *     *     *     *

 ちなみに、私はこのたび、構想四十二年執筆に専念すること二十一年を費やして
 「【契約主義大論】と題しました
第一部・『契約主義』
 第一巻・「『契約主義』および『人類院創設の構想』」(約1300枚)
 第二巻・「契約主義における恒久平和構想」(約2100枚)
第二部・『日本契約国建国の理念』
 第三巻・「日本契約国の存立原理と統治制度」(約1000枚)
 第四巻・「主権者行為」(約1600枚)
 第五巻・「公理命題軍事論(および公理命題死刑論)」(約1300枚)
 第六巻・「日本契約国建国のための政治的諸論」(約1100枚)
第三部・『契約国憲法と国家構成契約書』
 第七巻・「日本契約国憲法(日本契約国憲法と日本契約国国家構成契約書)」(約1100枚)
第四部・『契約主義革命』
 第八巻・「契約主義革命(日本契約国建国の構想)」(約1800枚)
 の全八巻・約11300枚(2008年5月時点での暫定枚数。1行40字での400字詰原稿換算枚数)からなる政治哲学論稿」

 を完成させ、もって、
 イ、【新政治哲学・契約主義】の原理的全体像。
 および、
 ロ、【新理想国家・日本契約国】の全国家像。
 の構築を終えたものです。

http://www1.odn.ne.jp/shikei-ron

 

9月28日付RION様投稿文への返信・その1

 投稿者:竹本 護メール  投稿日:2008年10月 5日(日)19時08分59秒
返信・引用
    【 9月28日付RION様投稿文への返信・・その1 】

  【 長文になりますので2回に分けて返信させて頂きます。 】


     *    *    *    *    *

 またまた丁重なるご返答を頂き、ありがとうございます。
 ただ、長文を綴られたご努力には敬意を表しますが、今回(28日投稿)の文意・趣旨のほとんどが多少の言い換えと感情表現を交えられた決め付け的結論を入れておられる以外は前回(23日投稿)の文意・趣旨に重複・類似しており、しかも全体的には(前回もそうでしたが、失礼ながら)論点(批判論点)の十分な整理がなされておらず、思いつくままに文章を書き連ねているといった印象は否めません。
 ご主張は「完全であることまでは求めはしませんが多少とも起承転結の利いた論理的な文章構成」をもって行なって頂きたいものです。

 貴兄が豊富な学識知見を持っておられる人士とみればこそ要望させて頂きますが、
 今後もし投稿される場合は文章と論理および論点を十分に時間をかけて推敲・整理されてから行なって下さい。
 また、決め付け的言葉で結論を主張される(一段論法)のではなく論拠を示してから結論を主張して下さい(二段論法・三段論法)。
 ( 例。いきなり「おまえはバカだ」ではなく「おまえはこんな恥ずかしいことをした。だからおまえはバカだ」という論法。面倒くさいかも知れませんがそうすることこそ説得技術というものですから。)


     *    *    *    *    *

   【貴投稿文】
google検索は、検索語との一致率や、リンクの多さで決まりますので、「死刑正当論」で検索してこのサイトが一位になるのはそれほど不思議ではありません。
「死刑正当論」というのは一般的な用語ではなく、だれも使っていないこと(おそらく貴殿の造語でしょう)と、貴殿が多数のブログ等に自らコメントを残してリンクを貼っていることの2点から、順位が上位になるのは当然の結果です。
失礼を承知で申し上げれば、「コメントスパム」で自サイトへ誘導するのと同じ行動をとっていらっしゃることになります。


  【返信】
 (もとより本論とは関係ないことですが)、貴兄が「感情性のうかがわれる否定の言辞」を重ねておられるので、(バッタとコオロギの喧嘩みたいでみっともないですが)ちょっと反論。

 ホームページを開設する場合、当人はその意図するテーマ(情報や主張)を広く世間に知ってもらうためにこそ開設するわけですが、
 このHPを公開するためには通常は「URLを知らせる」「グーグルやヤフーにサイトの掲載登録をしたのちキーワード検索を受ける」の二種の方法しかなく、開設さえすれば他人様が勝手に見てくれるものではありません。したがって多くの人に見てもらうためには、さしあたってはその多くの人に見てもらうための「URLを知らせるという”営業努力”」をしなければなりません。
 ご指摘のとおり、私もグーグルやヤフーにおける死刑論関係のサイトやブログ等を探しコメント欄に相応のHP紹介の書き込みをしましたが、この作業は大変手間のかかるものであり、実行件数は30件程度です。けっして貴兄から「スパム」などと”難癖”をつけられねばならないような胡散臭い(無差別大量自動発信)行為をしたわけではありませんので、あしからずご了承ください。
 また、『公理命題死刑論』は完全に私の独創的造語ですが、「死刑正当論」は「死刑賛成論」と同じ程度に中学生でも容易に口にすることのできるそれほど特異な言葉ではないはずですから「誰も使っていない」などとことさらに否定的に扱い見なされねばならない言葉ではないと思います。

{ ちなみに【死刑正当論(公理命題死刑論)】は、
  9月27日に『google』において(24万件中)
  10月3日に『Yahoo!』において(73万件中)
  それぞれ「サイト掲載順位・第1位」となっております。
  もっとも24万とか73万とかの数値に実際的にどんな意味があるのか、私にもわかりませんが(検索順位1万位以下だなんておそらく誰も見ないでしょうから)、とにもかくにも両検索サイトとも『死刑正当論』のキーワードで検索してみればそのトップに【死刑正当論(公理命題死刑論)】が据えられていることだけは事実です。}

{ 多少の皮肉を込めて言わせてもらえば、貴兄もその「忌むべきコメントスパム」とやらに”引っ掛かって”当HPおよび当掲示板に来られたのではないのでしょうか。}

{ ま、よろしいじゃないですか、私のHPがサイト掲載順位の第1位になっても。
  「1位たる者。上は無し、いずれは下がる悲しき運命(さだめ)」。ならば、せめて今日の日明日の日くらいは「メデタシメデタシ万人こぞって寿ぐべきことよのう」とニッコリ笑って過ごしましょう。
  余り否定の辞を募らされますと「ン?嫉妬」と心奥心理を見透かされることとなりますよ。}
{ 以上、バッタとコオロギの喧嘩でした。}


    *   *   *   *   *


 【貴投稿文】
 たしかに、貴殿が論旨中で用いている、諸々の用語群は独自のものでして、未だかつて(少なくとも、刑事法学の分野では)見たことのないものです。
しかし、そういう形式的・表面的なことを申し上げているのではなく、その言葉(ないし名称)が初見だとしても、その内容においては初見というわけではないということです。
すなわち、(「契約主義という政治哲学」を除き)主張内容に関しては、初見のものとはいえません。
具体例として、先のコメントで指摘したとおり、「生命に関する八種の公理命題」から導かれる死刑制度の必要性を説く理屈は、心理的強制説と一致します。
他にも、罪刑法定主義の民主主義的機能、法律主義、罪刑均衡、比例原則、明確性原則、消極的一般予防論、目的刑論、威嚇刑論、等の既存の理論によって、その内容が説明され尽くしているといえます。
確かに「名称」としては全く異なりますが、内容面では実質的に同一のものなのです。
そして、それが「間違っている」というつもりはありません(心理的強制説に関しても、それだけで死刑を正当化するに至る強力な理論にはなりえないと思いますが、正しい面も含んでいることまでは否定できません)が、あくまでも、数ある死刑存置論のひとつのグループ(威嚇効果による死刑の抑止力を中心に据えた死刑存置論を主張するグループ)に属するものであって、「まったく新しい発想」ではないということです。


  【返信】
 秋になって、ノーベル賞の季節がやって参りました。
 選考基準の曖昧な平和賞や文学賞と違って自然科学系の賞は明確に『独創的な業績』に対してのみ与えられます。

 「インターネット等の情報交流網・情報伝達手段が汎世界的に発達した現代」および「研究分野的にも自然科学にかかわるほぼ全分野が網羅され尽くし当該分野にかかわる科学者もそれぞれに数多くいる現代」においては、「ある科学者が既存の学問体系からまったく離れた説や理論を打ち立てもって独創的業績を成し遂げる」などということはほぼ不可能な状況にある事実は貴兄も否定しえないところだと思います。

 つまり、ノーベル賞相当の業績を上げるまでにはその研究過程において同分野における公知の事実に加えて多くの学者の最新の研究成果や論文を下敷きにして初めて『独創的業績』に到達することができるわけであり、かつ学界的にも公的に独創的と認められることによって受賞の栄誉に輝くこともできるわけです。
 こうした事実に対して、
 「独創的独創的というがアイツの理論はそれまでの膨大な研究者の研究成果を土台にして組み立てた理論じゃないか。ここはA教授の論文を引用している。ここはB博士の説に従っている。ここはC研究員のデータを使っている」
 と非難してみても

 「『それが盗作や著作権侵害といった非倫理的事態に至らないかぎり学究行為としては正当である』とされさらにはほぼすべての独創的業績がそうした形態で達成されざるをえない現代という時代」すなわちまた「膨大な既存知識が蓄積公開されそれを基盤的資料として膨大な学者が先進的研究を競い合う中で発明にしろ発見にしろ『結果的に独創的業績を成し遂げた者』が栄光の受賞者となれる現代という時代」

 においては、そう非難すること自体が無意味なこととならざるをえません。


 【公理命題死刑論】もまたしかりです。
 私はこの死刑論が『独創的死刑正当理論』であると考えていますが、
 この死刑論は、
 「本稿における第一章から第五章までの全思索すなわち『各章各項において設定展開される多数の前提・推論・結論』を体系的に集積し纏め上げて構築された死刑正当理論体系」
 です。

 私は、この「体系を構成する前提・推論・結論といった思惟思索思想要素の個々のすべて」において「そのすべての発想や結果が独創的である」と主張するつもりはありません。

 私が死刑正当理論を考想・構築するに際しては、その思索の底辺には(私当人の知識量の多少のいかんはともかくとして)膨大な数の先人が幾十年(幾百年)にわたって築き上げてきた「死刑正当論・不当論・賛成論・反対論・存置論・廃止論およびまた各論を形成する多種多様な個々の主張・思想等」が潜在的顕在的に存在しており、それらを土台とし下敷きとして理論形成が為されてきたのは事実です。
 そしてまた、(先人の結論量・思想量は言うまでもなく膨大多様ですから)その推論過程においていずれかの部分が先人の発想や主張に類似したり一致したりする箇所があったとしても強いて否定するつもりはありません。

 私が独創的とか「まったく新しい発想」とか主張するのはそうした全体を構成する部分の中の細かな部分ではなく、
イ、『第一章の前提認識』から全体的結論としての『第五章・「公理命題死刑論(契約死刑論)の定義」』に至るまでの推論の流れの体系的構築の様相。
 および、
ロ、全考想の統括的結論として明示された「定義としての『公理命題死刑論』」。
 を指します。

 すなわち、簡潔に申しますと、貴兄におかれましては、(「契約主義という政治哲学用語」は除き)
 「公理命題死刑論における代表的主要用語である【生命に関する八種の公理命題】【死刑正当条件】【公理命題死刑論】の三種の用語の各『定義』」
 を本文中でご確認ください。

 貴兄は今までこうした『定義化されることによって明確な概念範囲を規定され保障されたこれらの用語と同じ意味概念を持った用語』を目にされたことはありましたか。
 おそらくまったくなかったはずです。
 すなわち、「8種の公理命題および13種の正当条件の個々の件」だけを取り出してみればどこかで見られたことがあるかも知れませんが、『それらのそれぞれを統一的理念の下に体系的に纏め上げ(各定義に示されるような)一つの意味体系・理念体系を構築したもの』は未見のはずです。
 であればこそ私は自分の死刑論を「独創的」「まったく新しい発想」と主張しているわけなのです。


 これらの三種の用語を初め、私は本文中に出て来る『私流の新しい用語(概念)=読者にとっては初見の用語(概念)』に対しては、すべて『定義』を定めその「概念(言葉としての意味・内容)」を明確に説明し用語の独善的使用に陥らないように努めております。
 したがってまた「私の論稿中で用いられる『名称(用語の名称)』が新しい」ということは「内容が新しい」ということであり、「新しい内容」には『新しい名称』が付され『新しい定義(概念)』が定められているということなのです。
 とりわけ、「『第五章・「公理命題死刑論(契約死刑論)」の定義』において定められている定義」が『(貴兄すなわちまたわが国のすべての知識人にとって)まったく未知未見未聞の定義すなわち概念』である事実は、
 この章が「それまでの第一章から第四章までの全思索を統括する最終章」であるがゆえに、
 (貴兄ご指摘のように細かな部分で既存の論や説に類似したり一致したりする部分が含まれているとしても)全体状況的・全体意味的には
 「『それまでの思索や主張・推論の営みしたがってまたその結果としての本論稿』が十分に独創的である事実」
 を保障するものと言ってもいいはずです。

 さらには、「【契約国家(日本契約国)】という『人類未見の新国家概念』」を創造し、
{ 注。「【契約国家】が『人類未見の新国家概念』である根拠」の1例に関しましては、
  『本文の資料編2の【日本契約国国家構成契約書】の全二十二条』をご一読下さい。
  貴兄のみならずいかなる知識人においても『その条項編成や条文内容のいずれも未だかつて見聞したことのない契約書』のはずです。
  併せて『資料編1』の『【契約主義】の定義』もご一読下さい。}

 「死刑制度の適用に関しては、個人(契約国民)と国家(契約国家)が『国家構成契約時点での1対1の直接的契約』によって『個人甲が死刑相当殺人を行なえば国家乙は個人甲を死刑に処する(本文の資料編2の「日本契約国国家構成契約書の第九条」を参照)』と定め、もって『死刑は当該国民(死刑相当殺人犯)と国家の契約履行行為』であるとし『死刑執行の正当性保障』を行なう(本文の「第四章」の『一、『死刑執行行為」の基本的性格』を参照。)」

 という発想は人類史的にも初見のはずですし、
 もって私は自分の死刑論を「まったく新しい発想」と主張しているわけなのです。


 貴兄が使用しておられます「心理的強制説・罪刑法定主義の民主主義的機能、法律主義、罪刑均衡、比例原則、明確性原則、消極的一般予防論、目的刑論、威嚇刑論」といった言葉の群れからも貴兄が豊富な学識知見の持ち主であることは十分に理解しえますし、大いに敬意を表すべきことと存じますが、
 「学識に囚われ学識範囲内の事案に対しては鋭く反応することはできても目の前に忽然として登場した学識範囲外の事案に対してはかえって学識の価値観が妨げとなってその価値評価ができず判断に戸惑いさらには敵意を見せてさえ否定や拒絶の対処対応をしてしまう」
 という事例は、人文科学・自然科学も含めての学問の世界と限らず芸術の世界や政治・実業の世界においてもしばしば見られるところですし、
 一般現象的には『新事物・新事態・新事象の登場』に対して「これを肯定的に迎えるのは知見知識に乏しい若者」であり、「否定的に捉えるのは経験と見識が豊かで事案の是非や正否に的確な判断を下せるはずの大人」であるのも社会経験的現実です。
 この指摘は【公理命題死刑論】の是非とは直接的には関係のないことではありますが、
 貴兄がこの指摘の例外となられることを祈るばかりです。(余計なお世話だとお叱りを受けるかも知れませんが。)

 おりしも、芸術の秋。
 『絵画』の鑑賞をする時は、十分に離れた位置から絵全体を大観して味わいましょう。
 画布面に顔を近づけ「絵の具の塗りが悪い」の「筆使いが荒い」のとばかり言っていたのでは(それも鑑賞の一方法で有意味かも知れませんが)画家の『作画心・創作意図』は読めないのではないでしょうか。


    *   *   *   *   *

http://www1.odn.ne.jp/shikei-ron

 

難しく考えすぎ

 投稿者:普通の人  投稿日:2008年 9月28日(日)23時22分1秒
返信・引用
  死刑に対して難しく考えすぎなのではないでしょうか?人の命を理由もなく(事故や不幸な出来事は除く)奪った場合、自分の命をもって償うべきでしょう。最近話題になっている無期懲役に代わる「終身刑」、これほど馬鹿な制度はないと思います。在任を死ぬまで税金で養う事ほど無駄な事はありません。そんな無駄な事に使うお金があるなら社会福祉に使って下さい。きちんとした証拠があり、確実に犯人だと確定した場合は即死刑で良いと思います。それまでの証拠集めなどを慎重にし、確実に犯人だと確定した場合に限り即死刑。今の死刑制度では死刑までの期間にカウンセリングをしたりと無駄な時間と経費をかけております。殺された多くの方々は考える暇もなく殺されたのですから、死刑確定と同時に即死刑で良いと思います。最近は刑務所も待遇が良すぎます。全国の刑務所にかかる経費を考えて下さい。罪人を一人一ヶ月養うのに約三十万前後かかるそうです。おかしくないですか?犯罪者に甘い世の中はどうかと思います。  

反論にお答えします

 投稿者:Rion  投稿日:2008年 9月28日(日)18時07分49秒
返信・引用
  google検索は、検索語との一致率や、リンクの多さで決まりますので、「死刑正当論」で検索してこのサイトが一位になるのはそれほど不思議ではありません。
「死刑正当論」というのは一般的な用語ではなく、だれも使っていないこと(おそらく貴殿の造語でしょう)と、貴殿が多数のブログ等に自らコメントを残してリンクを貼っていることの2点から、順位が上位になるのは当然の結果です。
失礼を承知で申し上げれば、「コメントスパム」で自サイトへ誘導するのと同じ行動をとっていらっしゃることになります。


さて、本題に入ります。


【補足説明1への再反論】

たしかに、貴殿が論旨中で用いている、諸々の用語群は独自のものでして、未だかつて(少なくとも、刑事法学の分野では)見たことのないものです。
しかし、そういう形式的・表面的なことを申し上げているのではなく、その言葉(ないし名称)が初見だとしても、その内容においては初見というわけではないということです。
すなわち、(「契約主義という政治哲学」を除き)主張内容に関しては、初見のものとはいえません。
具体例として、先のコメントで指摘したとおり、「生命に関する八種の公理命題」から導かれる死刑制度の必要性を説く理屈は、心理的強制説と一致します。
他にも、罪刑法定主義の民主主義的機能、法律主義、罪刑均衡、比例原則、明確性原則、消極的一般予防論、目的刑論、威嚇刑論、等の既存の理論によって、その内容が説明され尽くしているといえます。
確かに「名称」としては全く異なりますが、内容面では実質的に同一のものなのです。

そして、それが「間違っている」というつもりはありません(心理的強制説に関しても、それだけで死刑を正当化するに至る強力な理論にはなりえないと思いますが、正しい面も含んでいることまでは否定できません)が、あくまでも、数ある死刑存置論のひとつのグループ(威嚇効果による死刑の抑止力を中心に据えた死刑存置論を主張するグループ)に属するものであって、「まったく新しい発想」ではないということです。


【補足説明2への再反論】

すでに何度も述べています通り、【補足説明2】で述べられている内容は、すべて心理的強制説の主張内容及び、それに立脚(ないし示唆を得た)死刑存置論の主張内容です。

これに対しては、消極的一般予防論に懐疑的な学説が、規範の維持という点に刑罰の根拠を見出そうとしている(積極的一般予防論)のも指摘したとおりです。
さらに、抑止効果を副次的な効果とした、絶対的応報刑論も再評価されだしているところです。
これらは、威嚇効果というものを完全に否定するものではありませんが、それ「のみ」で刑罰を正当化するほどの論拠足りえないというものです。

200年以上の議論の蓄積がありますから、ここでいちいち反論するつもりはありません。
反論は死刑廃止論者がやればいいですし、さんざん出尽くした議論を、ここでまたわざわざ繰り返すのも賢明ではありません。

重要なのは、

・心理的強制説に加えられた批判(そのまま貴殿の理論に妥当する批判)に、まったく対応しきれていない
・抑止効果があることだけで正当化されるという論理の飛躍に気づいていない
・決して『人間心理の洞察に関する一般普遍的かつ常識的判断』とはいえない

をきちんと認識すべきだという点です。
今のままでは、「理論の内容が200年前で止まっている」と言わざるをえません。
心理的強制説に立脚するのであれば、心理的強制説(及び、これに依存する死刑存置論)に加えられた批判にすべて答えなければならないのです。


【補足説明3】

これは、了解です。



【補足説明4】

内容的には理解しております。
そして、もちろん、現状の日本国に適用可能な死刑存置論の必要性も理解しております。


「正当条件不足のために死刑正当理論としての公理命題死刑論を適用することのできない『非契約国家としての日本国』といえども、当該社会(日本国社会)においてなによりも『殺害意図者によって殺されようとしているもしくはこれから殺されるかも知れない国民の命』を守るためには『その理論準用行為として条件水準を下げてでも死刑制度の制定と運用に関する正当性主張を行なうこと』は認められるべきである」

というのも、同意できます。


ただし、「民主主義国日本において適用可能な死刑存置論」に関する限り、「公理命題死刑論」とは全く無関係に主張しうる内容にまで理論的後退がなされています。
つまり、「第八公理命題」から導かれる条件を「必要条件」としなくなった時点で、貴殿の理論の唯一の独自性、したがってまた、「ほぼ全てが既存の概念・理論で説明された主張」のうちの「まったく新しい発想」が加えられた残部まで放棄することに他なりません。

しかも、体系そのものの存在価値すら失わしめる危険を包含しています。
というのも、緊急避難的に、あるいは必要性に駆られて現代の日本にも理論が適用可能ということは、「契約国家なる独創的国家体系」の構築が「必要不可欠ではない」ことを認めることになります。(すなわち、「必要条件」ではない)
完璧を期すためには、契約国家の成立が「理想」なのでしょうが、現代の日本で「正当化できるかできないか」が問われているのであって、仮に「正当化できる」のであれば、それが理想的かどうかは、もはや「単なる理論提唱者の自己満足」の領域になってしまいます。

現代の日本でも正当化可能なのであれば、契約国家とは、「わざわざ想定する必要のない国家」だということです。(頭の体操くらいにはなるかもしれませんが、理論としては無用の長物です)

貴殿は、現代日本への適用は、理論の応用・ないし派生的理論くらいに位置づけておられるのでしょうが、それにとどまらず、「公理命題死刑論」に基づく必要性のない、ただの「威嚇刑論に基づく死刑の正当化根拠」になり下がっています。


さらに、「認められるべきである」という価値判断に基づき、理論の修正を行うわけですから、「いっさいの主観的推論も主張も含まない『客観論理のみ』からなる死刑正当理論体系」という、貴殿の目指す出発点すらも排除することになります。



繰り返しますが、決してそれが「間違っている」という意味ではありません。(それが理論として説得的かどうかは別論)
威嚇効果というものも、ひとつの説明としてありうるのです。
法律論に価値判断が含まれるのも当然です。


ただし、「はじめに」から第三章までに述べられたことを、全て無に帰すことに他なりません。
「ほぼ全てが既存の概念・理論で説明された主張」が「完全に既存の概念・理論で説明された主張」になるのです。


理論の体系には、修正可能な部分と、修正しては根本から崩壊する核心部分があります。
現代日本での正当化は、明らかに後者を修正するものです。

したがって、結論的には、

1.現代日本では死刑を正当化することは許されないと結論付ける
2.「契約国家の創設」に至らずとも契約主義を貫徹しうる、実現可能な条件を新たに提唱する
3.契約主義であることを放棄し(公理命題死刑論を放棄する)、「威嚇刑論者の一人」として満足する

の3つの選択肢しか残されていないのです。


貴殿の理論は、「日本国が『契約国家』となるための現実的な方策」を提唱することで初めて完成するものと思われます。

そして、現代の日本では死刑は正当化できない(だからこそ、契約国家に移行すべき)という結論を維持すべきでしょう。
 

RION様投稿文に対する返信の追加分

 投稿者:takemotomamoruメール  投稿日:2008年 9月28日(日)15時53分53秒
返信・引用
  『RION様投稿文に対する返信』が容量オーバーのために文章の途中で切れてしまいました。
 以下に、【補足説明・4】より改めて追加説明をさせて頂きます。



【補足説明・4】
 ご指摘の諸件につきまして、以下に一括してお答えします。

 【公理命題死刑論】におきましては、死刑制度制定の目的は(第十一死刑正当条件=運営目的条件において述べていますように)「意図殺害者を処刑する前例を社会的に確立しておくことによって殺害意図者の殺害意図を事前に牽制し断念させもって未被殺害者の生命を保護保全すること」にあるわけですが、
 その目的がどうであれ、国家は現実に死刑囚なる人間を処刑行為として『殺します』。
>
 当然この『国家による殺人行為(処刑行為)』は社会的政治的に正当な行為でなければなりませんが、
 「いったいどれだけの条件が整っておればこの殺人行為は正当な殺人行為となるのか」との問いに対して出した解答が【死刑正当条件としての13種の条件】に他なりません。

 「この13種の条件をすべて満たしうる国家」がすなわち【契約国家(日本契約国)】であり、
 したがって『純理論的』には、
 「死刑は契約国家においてのみ執行されるべきもの」であり、『13条件のすべてを同時的に満たしてはいない現日本国のみならず現時点での世界中のすべての国家』においては執行されるべきではありませんし、その執行は不当な政治的行為として非難されねばなりません。

 【公理命題死刑論】を「観念世界で『仮想国家としての契約国家』を想定し当該国家内で通用する理論や思想主張としてのみ成立させておけばいい」というのであれば上記のように「非契約国家においては死刑は不可なり」と主張しておればすむこととなりまことに気楽でいいのですが、

 しかしながら今現実の日本社会においては現に年間数十件程度もの死刑相当殺人が行なわれ来年も再来年もまた同数程度の凶悪悲惨な殺人事件が行なわれることがほぼ確実に予測されます。
 こうした現実に対して「契約国家でない今の日本国は理論想定外の国家なのだから【公理命題死刑論】は関係ない」と言うのではせっかくの理論の構築と提案の意味がありません。

 すなわち「理論想定外の国家」ではあっても未来において年間数十人もの善良な国民が無残に殺されるのが想定される以上、その被害者を一人でも多く減らすべく為しうるかぎりの『理論対処』を行なうのが『当該の理論(すなわち公理命題死刑論)および理論創案者(すなわち筆者)の務め』だと思います。

 この『理論対処』につきましては、
 「【公理命題死刑論】において【死刑正当条件としての13条件】を提案することの独創性すなわち理論的価値」は『契約国家なる独創的国家体系』を創造想定したところにあり、かつ、13条件のうちで『契約国家においてのみ成立する条件が第五・六・十三条件』ですので、
 『非契約国家である日本国における死刑正当条件』としてはこれらの条件以外の10条件しか適用することができないこととなり、この10条件の個々を観察してみれば、各条件のいずれも「条件成立のためには『契約国家における国民と国家との構成契約の成立』を前提とする必要のない条件」であり、
 したがって、もはや「格別に独創性のある条件」とは言えないものとなります。
 すなわち、貴兄ご指摘のように「契約国家を想定した理論がかなり修正されており、もはや、その独自性を失わしめるほどの理論的後退がみられます」といった事態に立ち至らざるえないこととなりますし、「理論の独自性を維持するのであれば、死刑廃止論に至ることを是とすべきです」とのご指摘も認めざるをえないこととなります。


 しかしながら、ここで「第四章」の【四、「『非契約国家としての日本国』における死刑制度の制定と運用」の正当性】における「『政治的条件』と『人間的条件』の選択の問題」の件について述べてみますと、以下のようになります。

 「『政治的条件』と『人間的条件』の選択の問題」とは、
 原理的問題として分かり易く例えると、100キロ先の病院へ1時間以内に担ぎ込まないと死んでしまう重病人がいるとします。ところが病院までの道路の制限速度は50キロである場合、当然われわれの社会は
 「はたして『制限速度を守って病人を死なせてしまうか(政治的条件)』それとも『100キロ超のスピード違反を犯しても病人を助けるか(人間的条件)』の選択の問題」
 を突き付けられる事となります。
 この事例においては、おそらく(私も貴兄?も含めて)圧倒的多数の国民が「スピード違反はいけない(政治的条件)」と認識しつつつも『それより病人を助ける方が大事だ(人間的条件)』と考えその選択を行なうはずです。

 同様に、「死刑正当条件としての10条件しか満たされていない政治社会(現日本国)」は「死刑正当条件としての13条件がすべて満たされている政治社会(日本契約国)」に比して『死刑制度の正当なる制定と運用において不完全な政治社会』ではあるが、その日本国において今現実に行なわれようとしている凶悪悲惨な殺人行為(死刑相当殺人行為)に対して『死刑制度の運用すなわち死刑相当殺人犯を処刑する行為』がその殺人行為を防止する効果があるなら、
{ 注。「死刑の殺人(死刑相当殺人)抑止効果」については多くの死刑廃止論者がその無効性を主張していますが、その実相は「死刑に殺人抑止効果があったのでは死刑廃止の主張が成立しないから「『抑止効果はない』という人間心理の現実を無視した主張」を行なっているものであり(前提と結論の逆構成)、説得力はありません。
 また、「死刑の殺人(死刑相当殺人)抑止効果」については【補足説明・2】を参照。}


 おそらく(私も貴兄?も含めて)圧倒的多数の国民が
 「『死刑制度の正当なる制定と運用において不完全な政治社会であるから死刑制度の制定も運用も行なうべきではないとの条件(政治的条件)』の選択よりも『死刑制度を運用することによって殺されそうになっている人を助けることの方を優先すべきだとの条件(人間的条件)』の選択を行なうほうが『社会的人間的選択として正しい』」
 と判断するはずです。

 すなわちまた、純原理的には、
 「【公理命題死刑論】は【契約国家である日本契約国】においてのみ成立する死刑正当論であり、したがってその提案者である筆者は『契約国家でない日本国における死刑制度の制定と運用』に対してはその正当性を形成し保障する理論主張上のいかなる責任も保有しない」
 わけですが、
 「正当条件不足のために死刑正当理論としての公理命題死刑論を適用することのできない『非契約国家としての日本国』といえども、当該社会(日本国社会)においてなによりも『殺害意図者によって殺されようとしているもしくはこれから殺されるかも知れない国民の命』を守るためには『その理論準用行為として条件水準を下げてでも死刑制度の制定と運用に関する正当性主張を行なうこと』は認められるべきである」
 とする筆者の主張は『政治運営・国家運営の現実に即した主張』として成立するはずですし、そう主張したからといって「【公理命題死刑論】理論的意味およびその主張と説得力」を失わしめるものとはならないはずです。

 ともあれ、もとより【公理命題死刑論】の提唱者としましては、
 わが日本国が一日でも早く『契約国家』となり
 「『死刑』というこの厳粛な政治的行為がその明確な正当性保障のもとに(できれば)総国民的支持を得て粛々と執行され、もって多くの殺人行為(死刑相当殺人行為)の事前防止がなされ善良なる国民の命が守られること」
 を望んでやまないところです。



 さてさて、死刑論の話を離れまして、
 人類社会は大状況的には「19世紀の専制政治社会」から「20世紀の民主政治社会」を経て『21世紀の契約政治社会』へと進化を遂げますが、この契約政治社会を規律する政治哲学が【契約主義】であり、その『公式の定義』を【資料編1】において明示しています。「(貴兄がご理解しておられる)民主主義の定義」と比較しながらこの定義を読んで頂ければ「もはや民主主義が時代遅れの政治思想でしかない」ことが容易にご理解いただけると思います。

 また、『民主主義にとって代わるべき契約主義』の理論的精髄となるのが
 【資料編集2・日本契約国国家構成契約書(全文)】
 です。
 ここには、「『国民である以前の人間としての【個人】』と【国家】との政治原理的関係はいかにあるべきか」
 との原理的問題に対する解答が計22条の条項条文として明示されています。

 ご精読頂ければ幸甚です。



 余筆ながら、本ホームページと別に
 「【方程式宇宙論】と題しました宇宙論のホームページ」
 を開設しております。
   URLは 【 http://www1.odn.ne.jp/takemoto-uchu 】です。
 畑違いの論稿ですが、一度お読み頂ければ幸いと存じます。

http://www1.odn.ne.jp/shikei-ron

 

RION様投稿文に対する返信

 投稿者:takemotomamoruメール  投稿日:2008年 9月28日(日)14時48分56秒
返信・引用
    RION様
 短時日にその文章・文意・論旨のいずれにおいてもかくも整然的確なるご応答が頂けるとは想定していませんでした。
 ご尽力に感謝と敬意を表します。


 ご指摘の各件に対しまして、取り急ぎ筆者としての補足説明(ないし反論)をさせて頂きます。

 【注】
 「google」の検索欄に『死刑正当論』のキーワードを入力して検索してみて下さい。
 検索順位の第1位に私(竹本護)の当ホームページ【死刑正当論(公理命題死刑論)】が掲載されています。
 また、検索順位の第2位から第7位までのすべてのサイトに私のコメントが紹介されています。
 「エッ、googleの検索24万件中のトップにいきなりオレのHPが来たのか!?」
 と本人としてもちょっと驚いた事態と次第ですが、
 一度確認してみて下さい。(08.9.28現在)



【貴投稿文】
従来のいかなる死刑正当論・肯定論においても見られなかったまったく新しい発想で展開される【究極の死刑正当理論体系=公理命題死刑論】とあったので、拝見させていただきました。

率直に申し上げて、ほぼ全てが既存の概念・理論で説明された主張にとどまっています。
残念ながら、『未知未見未聞にして異次元の理論世界・真理世界』とはいえません。

もちろん、死刑存置論のひとつの理解、ひとつの説明方法として成り立たないものではありませんが、既存の議論の枠内に止まっているいる以上は、決して死刑存廃論争に新しい局面を作り出すものではなく、したがってまた「究極の理論」とはいえないでしょう。


  【補足説明・1】
 【公理命題死刑論】は「『契約主義という政治哲学』および『生命に関する八種の公理命題』を基幹的論拠として構築され『13種の死刑正当条件』を提唱した死刑正当論」ですが、
 この『契約主義という政治哲学』も『八種の公理命題という生命観』もともにわが国の思想界においては未知未見未聞のはずですし、『13種の死刑正当条件』もまたわが国の刑法学界においてはかつて存在してはおらず今も存在してはいないはずです。
 貴兄におかれては、「公理命題死刑論」「契約主義という政治哲学」「生命に関する八種の公理命題」「13種の死刑正当条件」のいずれの言葉(およびまたその主張内容)も初見のはずです。
 したがって、「ほぼ全てが既存の概念・理論で説明された主張にとどまっています」とのご指摘はまったく当たってはいないと思いますが、いかがでしょうか。

 なお、「究極の理論」の『究極』という表現に関しましては、「(目次冒頭のタイトルに使っております)『完璧なる』という表現」と同様にその意味内容の曖昧さゆえに本来、思想の世界においては軽々に使われるべき表現ではありませんし、もとより本編本文中の主張や論理論旨の正しさをなんら保障するものでもありません。
 すなわち、(筆者としては無責任な言い方になって申し訳ありませんが)この表現は『見出し』の部分において「読者の関心を引き付けるためのキャッチフレーズ」として使われたものとご理解いただきたいと存じます。



【貴投稿文】
具体例をあげますと、『「死刑制度の制定と運用」の必要性』において説かれていることは、刑法学の用語で心理的強制説とよばれるものと一致します。
これは、19世紀初頭にフォイエルバッハというドイツの刑法学者が提唱したもので、最も古典的な一般予防論の理論的根拠となっています。
フォイエルバッハは、「近代刑法学の父」とよばれているように、心理的強制説は近代刑法学の初期から既にみられる見解でして、それ以来、様々な批判が加えられています。

心理的強制説にみられる刑罰の威嚇効果を根拠に主張されているのが、消極的一般予防論とよばれる刑罰論ですが、最近では、刑罰の威嚇効果がほとんどないということが実証的に明らかになりつつあり、むしろ、規範の妥当性を維持するという点を重視した積極的一般予防論が有力に主張されています。

論旨中で「人間心理の洞察に関する一般普遍的かつ常識的判断」として、当然のように用いられるこの心理的強制説も、決して自明の理ではないということです。

したがって、この理論を採用したところに、何らかの価値判断、主観が介在していることになります。
もちろん、それが悪いということではありません。
法律は自然科学ではなく、価値の体系です。
価値判断抜きには何も決定されず、また、価値判断であるが故に、絶対的な正解など存在しません。
法律論において重要なのは、主観の排斥や純客観的な理論構築ではなく、十分に説得的で実用的な理論構築なのです。

ですから、心理的強制説も「間違い」ではないのであって、それを説得的に主張すればよいのですが、また同時にこれは決して「正解」ではなく、価値判断が介在する以上は異論が存在しうるということです。


   【補足説明・2】
 『死刑の威嚇効果や殺人意図に対する牽制力』に関しましては、
 ご存知のようにわが国では大略的には毎年千件余りの殺人事件が発生しておりますが、このうち「死刑相当殺人とすべき事案」すなわち「検察が死刑を求刑し裁判官が死刑にすべしと思いもしくは死刑にすべきか無期懲役にすべきか迷うような殺人事件」は数十件程度であり、ほとんどの殺人事件は死刑考慮の対象外となっております。
 ここで、公理命題死刑論においては「死刑が牽制し抑止する犯罪」は『死刑相当殺人』すなわちこの『数十件の殺人』に対してのみであり、けっして「殺人事案中の死刑相当殺人以外の(千件余の)殺人事案(過失殺人や未必の故意殺人等の凶悪性・意図性の低い殺人事案)」を抑止したりするものではなく、ましてや犯罪(殺人以外の傷害・窃盗・詐欺・脱税等の一般犯罪)を抑止・防止したりするものではありません。

 したがって、死刑廃止論者等が好んで使う言い分としての「死刑には殺人を抑止する効果はない」「死刑があっても犯罪は減らない」といった類の表現は「死刑という刑罰に対する用語的基礎理解の欠如した粗雑過ぎる言い方」ですし、
 EU諸国等における死刑廃止前後の総殺人件数の増減を統計数値的に持ち出してきても「死刑抑止という言葉の意味の適用対象すなわち死刑相当殺人」を的確に認識し計数した上での数値ではありませんから無意味にして説得力のない主張と言わざるをえません。

 つまり、『公理命題死刑論における死刑の抑止効果』とは簡略に言えば、
 「人を意図的に殺そうと考えている人間のその殺人意図を牽制し当該の殺人行為を断念させ『殺されるかも知れない人の命を守る』ためにはどうすればいいか」という問いに対する答えとしての
 「そのためにはこの人間に『殺人を行なった場合と殺人犯人として処刑される場合の損得計算』をさせ『殺人がバレて死刑になるのでは引き合わない』『死刑になって処刑されるのはイヤだ。オレはそんなことで死にたくはない』と思わせれば殺人を断念するだろう」
 との考え(効果)を言います。(「死刑制度の制定と運用のための第四前提認識」および「第十一死刑正当条件=運営目的条件」を参照。)

 おそらく、現実の問題として、
 「人知れず(ある程度本気で)こうした殺人(保険金殺人・誘拐殺人や復讐殺人・欲望殺人等)を企んではみたものの『死刑になることの恐怖』ゆえに結局はその実行を断念した事例」すなわちまた『死刑が殺人抑止に成功した事例』
 は数多く存在したと思われますが、
 こうした殺人意図はそれを断念したがゆえにすなわち事件化しなかったがゆえに、けっして表面化すなわち統計数値等に表われることはありません。

 したがって、「そもそも『死刑による殺人抑止効果』を統計的方法によって『実証』しよう」としても、原理的に
 『抑止成功事例を統計数値として計数することが不可能な事案を数値的に計量しようとするムリ』
 があるわけですから
 「『死刑に殺人抑止効果はない』ことが統計的に実証された」
 という主張には説得力はありません。

 すなわちまた、『死刑による殺人(死刑相当殺人)抑止効果』については、
 「多くの殺人意図者はそのように考えて(すなわち『殺人がバレて死刑になるのでは引き合わない』『死刑になって処刑されるのはイヤだ。オレはそんなことで死にたくはない』と考えて)殺人行為を断念するだろう」との推測的効果を「『人間心理の洞察に関する一般普遍的かつ常識的判断』として考えるしかない」
 ということとなります。

 もとより、人間というものは複雑怪奇な存在であり、(先日の秋葉原の7人刺殺事件の加藤某やかつてのオーム教団の幹部信者のような)およそ常識的判断の通用しない人間も少数とはいえ常在的に存在するのがわれわれの社会ですから「『人間心理の洞察に関する一般普遍的かつ常識的判断』が人間社会の全体を完全に規律しうるほどの的確性を持つ」などと考えるべきではないにしても、

 「その意識を殺人の実行に移行させようとしている人間のその意図意識を『処刑されることの恐怖』が良識的判断すなわち殺人意図の断念へと引き戻す」であろうことは、
 「圧倒的多数の良識ある人々およびまた『良識と非良識の間で揺れ動く人間すなわち殺人を為すべか否かの思案の境界線上に存する人間』に対する適用可能性(殺人を断念させる効果)を有する」という意味において
 【死刑の殺人(死刑相当殺人)抑止効果論・抑止効果説】は『人間心理の洞察に関する一般普遍的かつ常識的判断』として十分に妥当であるはずです。



  【貴投稿文】
また、「公理」というのも正確ではありません。
生命に絶対的な価値を見出すのは、日本国憲法の価値体系の下では「公理」といってもよいほど十分通用すると思います(したがって、これを前提として演繹することに異論はありません)が、これは人類普遍のものと言い切れる大前提ではありません。
例えば、宗教的に何らかの存在に生命以上の価値を見出すことは十分考えられますし、宗教が法をも規律する国においては、法律上の規定として生命以上の価値をもつ実体が存在しえます。
ここが、自然科学と法律の違いです。
日本では当然のことであっても、海外では当然とはいいきれないのです。

したがって、死刑制度においても、ヨーロッパ諸国が廃止するからといって日本が廃止する必要はないように、日本が廃止しないからといって、他国も復活させる必要はありません。
価値観が違う以上は、国によって導入の是非が異なって当然なのです。


   【補足説明・3】
 【公理】という言葉につきましては、以下のように考えます。
 ご存知のように『公理』という言葉は本来的には数学の世界で例えば「二点間の最短距離は直線である」「一点から等距離を結ぶ図形は円である」「交わることのない二本の直線は平行線である」といった「誰も絶対にその真理性を否定することのできない事実的命題」に対して使われる言葉であって、
 したがってまたこの命題の真理性は『絶対的な正しさ』として「多くの自然科学上の大命題の真理性」と同様に『人類普遍のもの』であり、その思考に関わるすべての人を従わせることができます。

 一方、思想の世界においては「オレが何を考えようとオレの勝手」なのであり、どれほど多くの人がその考えを正しいと信じていても一人の反対者がいるだけでその考えの正しさはもはや『相対的な正しさ』でしかなくなり、
 もって、『誰も絶対にその真理性を否定することのできない思想的命題』などというものはありえません。

 にもかかわらず私があえて【公理】【公理命題】という言葉を使う以上、当然その使用に対しては「留保条件」を付ける必要があります。
 すなわち、「第一章」の「一」の『2』の[2]の(ロ)において、「【公理命題】の定義」を

 【公理命題】とは、
 【「契約主義の思想体系内において思想主張および論理形成を行なうに際して『その基幹的準拠としての機能』を果たし、かつ、その成立の正当性の論理的証明が不可能である『命題』」で、
1、その事実が
 イ、経験的に真実である。
  とみなされる事実判断で、
 ロ、契約主義の思想体系内において思想主張および論理形成を行なうに際しては、その真実性を論証することなく真実として扱ってよい事実判断としての命題
 および、
2、その主張が
 イ、経験的に真理である。
  とみなされる思想判断で、
 ロ、契約主義の思想体系内において思想主張および論理形成を行なうに際しては、その真理性を論証することなく真理として扱ってよい思想判断
 としての命題。】
 をいう。

 と定めています。

 お読み頂ければ分かりますように、「生命に関する第一~第八公理命題」が思想真理として有効なのは『契約主義の思想体系内において思想主張および論理形成を行なう場合』すなわち『契約主義を信じる人々の間』に限定されたことなのであり、
 たとえば、私(および契約主義者)がいくら
 「『第七公理命題=生命の権威は生命以外のいかなる存在の権威に比しても、絶対的である=この世の中に人の命以上に尊いものはないとの考え』は人の命に関わる真理である」
 と力説してみても(おそらく圧倒的多数の日本人はこの命題の真理性を支持するはずにしても)、

 世界を見渡せば、(貴兄ご指摘のように)イスラム圏内では「コーランを侮辱するものは殺されてしかるべし」との考えも当然のように支持されているそうですし、北朝鮮では「公然と政治批判をすれば銃殺刑が待っている」と聞きます。

 私も以上の事実すなわち『思想世界にはすべての人間において絶対的に正しい理(ことわり)なぞ存在しないという事実』すなわちまた「思想による人間支配の限界性」を十分に承知の上で
 【公理】【公理命題】【公理命題死刑論】の各用語を「『契約主義の思想体系内において思想主張および論理形成を行なう場合』との留保条件(お気づき頂けなかったかも知れませんが)」を明示して使っておりますので、
 貴兄におかれてもこの『留保条件』をキチンと認識された上で論稿をお読み頂ければ、【公理】という言葉が誤解釈的もしくは独善解釈的に使用されているということにはならないと思います



  【貴投稿文】
 さて、最初に「ほぼ全て」と述べましたが、契約という概念を用いて死刑存置を主張する言説はあまり見たことがありません。
この点に独自性を見出すことができるかもしれません。

しかし、事前に承諾がある場合に死刑制度が正当化されるのは、自己責任原理や自己決定権等の概念を持ち出すまでもなく当然のことといえ、それと同様に、特に「公理」というものを持ち出す必要もありません。

しかし、求められているのは、全国民が事前に承諾しているというような架空の国家ではなく、現に存在する国家の法制度として実用可能な死刑存置論です。
そうでなければ、何の実益もない空理空論に終わるでしょう。

したがって、最も重要なのは「「『非契約国家としての日本国』における死刑制度の制定と運用」の正当性」に書かれた内容だということになります。

しかし、ここでは契約国家を想定した理論がかなり修正されており、もはや、その独自性を失わしめるほどの理論的後退がみられます。

『4』[1]で述べられていることは、常に前提とされてきた「死刑正当条件としての全十三条件の同時的成立」を満たす必要がないというものです。
ということは、結局死刑を正当化する上で、「第五死刑正当条件」「第六死刑正当条件」「第十三死刑正当条件」という3条件は不要だということを意味します。
それならば、これらの条件(必要条件ではなかったのだから)は最初から削除すればさらに理論が整理されるでしょう。

もっとも、問題はそういうことではありません。

論旨中では、「政治的条件」だということをもって、その条件の必要性を相対化しています。
しかし、たとえば「第五死刑正当条件」は「第二死刑制度正当適用条件」より導かれるものであって、これはもともと「第二生命正当管理条件」さらに遡れば、「生命管理に関する唯一正当な主体は、当人である」とする「生命に関する第八公理命題の真理性」に至るものです。

したがって、「国家(契約国家)において政治の運営が円滑に成されるために成立しておくべき必要条件。」ではなく、第八公理命題を担保する中心的な条件であったはずです。
これを後退させてよいというのであれば、せっかく「契約国家」を想定して組み立てた理論を、根底から覆すものといえます。
それはすなわち、理論の独自性を完全に失わしめることを意味します。

これを避けるには、第八公理命題を可及的に担保しうる「次善策」を講じるか、あるいは「民主主義国家日本」での適用をあきらめるかのいずれかしかありません。

前者として考えられるのが、民主主義によって決められ、かつ維持されている制度たる死刑制度は民主主義的基盤が存在し、それを拒絶することは正当性を有しない(民主主義的過程において「事前承諾が擬制される」と構成する)、ということです。

ただし、このような考え方は、「公理」や「事前承諾」という概念こそ用いないものの、「罪刑法定主義の民主主義的機能」という概念とほぼ同義であり、やはり、理論の独自性は失われるでしょう。

そうなると、やはり、「民主主義国家日本」においての適用は断念するしかありません。
つまり、この理論から客観的に導かれる帰結としては、「契約国家においては死刑存置が必要かつ正当性を有する」が、「民主主義国家日本においては、必要であるが正当性を有しない」となるでしょう。

ここで、「民主主義国家においても正当性を有するとする」ことはもちろん可能です(私見では、それが妥当だと考える)。
ただし、それは決して「生命に関する公理命題」からの論理的帰結ではなく、価値判断に基づく(いわば既存の議論の枠組みにおける)死刑存置論と変わりはありません。


理論の独自性を維持するのであれば、死刑廃止論に至ることを是とすべきです。
その上で、「契約国家日本」へ移行するための理論を新たに構築すべきと思われます。


  【補足説明・4】
 ご指摘の諸件につきまして、以下に一括してお答えします。

 【公理命題死刑論】におきましては、死刑制度制定の目的は(第十一死刑正当条件=運営目的条件において述べていますように)「意図殺害者を処刑する前例を社会的に確立しておくことによって殺害意図者の殺害意図を事前に牽制し断念させもって未被殺害者の生命を保護保全すること」にあるわけですが、
 その目的がどうであれ、国家は現実に死刑囚なる人間を処刑行為として『殺します』。

 当然この『国家による殺人行為(処刑行為)』は社会的政治的に正当な行為でなければなりませんが、
 「いったいどれだけの条件が整っておればこの殺人行為は正当な殺人行為となるのか」との問いに対して出した解答が【死刑正当条件としての13種の条件】に他なりません。

 「この13種の条件をすべて満たしうる国家」がすなわち【契約国家(日本契約国)】であり、
 したがって『純理論的』には、
 「死刑は契約国家においてのみ執行されるべきもの」であり、『13条件のすべてを同時的に満たしてはいない現日本国のみならず現時点での世界中のすべての国家』においては執行されるべきではありませんし、その執行は不当な政治的行為として非難されねばなりません。

 【公理命題死刑論】を「観念世界で『仮想国家としての契約国家』を想定し当該国家内で通用する理論や思想主張としてのみ成立させておけばいい」というのであれば上記のように「非契約国家においては死刑は不可なり」と主張しておればすむこととなりまことに気楽でいいのですが、

 しかしながら今現実の日本社会においては現に年間数十件程度もの死刑相当殺人が行なわれ来年も再来年もまた同数程度の凶悪悲惨な殺人事件が行なわれることがほぼ確実に予測されます。
 こうした現実に対して「契約国家でない今の日本国は理論想定外の国家なのだから【公理命題死刑論】は関係ない」と言うのではせっかくの理論の構築と提案の意味がありません。

 すなわち「理論想定外の国家」ではあっても未来において年間数十人もの善良な国民が無残に殺されるのが想定される以上、その被害者を一人でも多く減らすべく為しうるかぎりの『理論対処』を行なうのが『当該の理論(すなわち公理命題死刑論)および理論創案者(すなわち筆者)の務め』だと思います。

 この『理論対処』につきましては、
 「【公理命題死刑論】において【死刑正当条件としての13条件】を提案することの独創性すなわち理論的価値」は『契約国家なる独創的国家体系』を創造想定したところにあり、かつ、13条件のうちで『契約国家においてのみ成立する条件が第五・六・十三条件』ですので、
 『非契約国家である日本国における死刑正当条件』としてはこれらの条件以外の10条件しか適用することができないこととなり、この10条件の個々を観察してみれば、各条件のいずれも「条件成立のためには『契約国家における国民と国家との構成契約の成立』を前提とする必要のない条件」であり、
 したがって、もはや「格別に独創性のある条件」とは言えないものとなります。
 すなわち、貴兄ご指摘のように「契約国家を想定した理論がかなり修正されており、もはや、その独自性を失わしめるほどの理論的後退がみられます」といった事態に立ち至らざるえないこととなりますし、「理論の独自性を維持するのであれば、死刑廃止論に至ることを是とすべきです」とのご指摘も認めざるをえないこととなります。


 しかしながら、ここで「第四章」の【四、「『非契約国家としての日本国』における死刑制度の制定と運用」の正当性】における「『政治的条件』と『人間的条件』の選択の問題」の件について述べてみますと、以下のようになります。

 「『政治的条件』と『人間的条件』の選択の問題」とは、
 原理的問題として分かり易く例えると、100キロ先の病院へ1時間以内に担ぎ込まないと死んでしまう重病人がいるとします。ところが病院までの道路の制限速度は50キロである場合、当然われわれの社会は
 「はたして『制限速度を守って病人を死なせてしまうか(政治的条件)』それとも『100キロ超のスピード違反を犯しても病人を助けるか(人間的条件)』の選択の問題」

 を突き付けられる事となります。
 この事例においては、おそらく(私も貴兄?も含めて)圧倒的多数の国民が「スピード違反はいけない(政治的条件)」と認識しつつつも『それより病人を助ける方が大事だ(人間的条件)』と考えその選択を行なうはずです。

 同様に、「死刑正当条件としての10条件しか満たされていない政治社会(現日本国)」は「死刑正当条件としての13条件がすべて満たされている政治社会(日本契約国)」に比して『死刑制度の正当なる制定と運用において不完全な政治社会』ではあるが、その日本国において今現実に行なわれようとしている凶悪悲惨な殺人行為(死刑相当殺人行為)に対して『死刑制度の運用すなわち死刑相当殺人犯を処刑する行為』がその殺人行為を防止する効果があるなら、
{ 注。「死刑の殺人(死刑相当殺人)抑止効果」については多くの死刑廃止論者がその無効性を主張していますが、その実相は「死刑に殺人抑止効果があったのでは死刑廃止の主張が成立しないから「『抑止効果はない』という人間心理の現実を無視した主張」を行なっているものであり(前提と結論の逆構成)、説得力はありません。
 また、「死刑の殺人(死刑相当殺人)抑止効果」については【補足説明・2】を参照。}


 おそらく(私も貴兄?も含めて)圧倒的多数の国民が
 「『死刑制度の正当なる制定と運用において不完全な政治社会であるから死刑制度の制定も運用も行なうべきではないとの条件(政治的条件)』の選択よりも『死刑制度を運用することによって殺されそうになっている人を助けることの方を優先すべきだとの条件(人間的条件)』の選択を行なうほうが

http://www1.odn.ne.jp/shikei-ron

 

死刑存置論者として

 投稿者:Rion  投稿日:2008年 9月23日(火)03時05分6秒
返信・引用
  従来のいかなる死刑正当論・肯定論においても見られなかったまったく新しい発想で展開される【究極の死刑正当理論体系=公理命題死刑論】とあったので、拝見させていただきました。

率直に申し上げて、ほぼ全てが既存の概念・理論で説明された主張にとどまっています。
残念ながら、『未知未見未聞にして異次元の理論世界・真理世界』とはいえません。

もちろん、死刑存置論のひとつの理解、ひとつの説明方法として成り立たないものではありませんが、既存の議論の枠内に止まっているいる以上は、決して死刑存廃論争に新しい局面を作り出すものではなく、したがってまた「究極の理論」とはいえないでしょう。


具体例をあげますと、『「死刑制度の制定と運用」の必要性』において説かれていることは、刑法学の用語で心理的強制説とよばれるものと一致します。
これは、19世紀初頭にフォイエルバッハというドイツの刑法学者が提唱したもので、最も古典的な一般予防論の理論的根拠となっています。
フォイエルバッハは、「近代刑法学の父」とよばれているように、心理的強制説は近代刑法学の初期から既にみられる見解でして、それ以来、様々な批判が加えられています。

心理的強制説にみられる刑罰の威嚇効果を根拠に主張されているのが、消極的一般予防論とよばれる刑罰論ですが、最近では、刑罰の威嚇効果がほとんどないということが実証的に明らかになりつつあり、むしろ、規範の妥当性を維持するという点を重視した積極的一般予防論が有力に主張されています。

論旨中で「人間心理の洞察に関する一般普遍的かつ常識的判断」として、当然のように用いられるこの心理的強制説も、決して自明の理ではないということです。

したがって、この理論を採用したところに、何らかの価値判断、主観が介在していることになります。
もちろん、それが悪いということではありません。
法律は自然科学ではなく、価値の体系です。
価値判断抜きには何も決定されず、また、価値判断であるが故に、絶対的な正解など存在しません。
法律論において重要なのは、主観の排斥や純客観的な理論構築ではなく、十分に説得的で実用的な理論構築なのです。

ですから、心理的強制説も「間違い」ではないのであって、それを説得的に主張すればよいのですが、また同時にこれは決して「正解」ではなく、価値判断が介在する以上は異論が存在しうるということです。

また、「公理」というのも正確ではありません。
生命に絶対的な価値を見出すのは、日本国憲法の価値体系の下では「公理」といってもよいほど十分通用すると思います(したがって、これを前提として演繹することに異論はありません)が、これは人類普遍のものと言い切れる大前提ではありません。
例えば、宗教的に何らかの存在に生命以上の価値を見出すことは十分考えられますし、宗教が法をも規律する国においては、法律上の規定として生命以上の価値をもつ実体が存在しえます。
ここが、自然科学と法律の違いです。
日本では当然のことであっても、海外では当然とはいいきれないのです。

したがって、死刑制度においても、ヨーロッパ諸国が廃止するからといって日本が廃止する必要はないように、日本が廃止しないからといって、他国も復活させる必要はありません。
価値観が違う以上は、国によって導入の是非が異なって当然なのです。



さて、最初に「ほぼ全て」と述べましたが、契約という概念を用いて死刑存置を主張する言説はあまり見たことがありません。
この点に独自性を見出すことができるかもしれません。

しかし、事前に承諾がある場合に死刑制度が正当化されるのは、自己責任原理や自己決定権等の概念を持ち出すまでもなく当然のことといえ、それと同様に、特に「公理」というものを持ち出す必要もありません。

しかし、求められているのは、全国民が事前に承諾しているというような架空の国家ではなく、現に存在する国家の法制度として実用可能な死刑存置論です。
そうでなければ、何の実益もない空理空論に終わるでしょう。

したがって、最も重要なのは「「『非契約国家としての日本国』における死刑制度の制定と運用」の正当性」に書かれた内容だということになります。


しかし、ここでは契約国家を想定した理論がかなり修正されており、もはや、その独自性を失わしめるほどの理論的後退がみられます。

『4』[1]で述べられていることは、常に前提とされてきた「死刑正当条件としての全十三条件の同時的成立」を満たす必要がないというものです。
ということは、結局死刑を正当化する上で、「第五死刑正当条件」「第六死刑正当条件」「第十三死刑正当条件」という3条件は不要だということを意味します。
それならば、これらの条件(必要条件ではなかったのだから)は最初から削除すればさらに理論が整理されるでしょう。

もっとも、問題はそういうことではありません。

論旨中では、「政治的条件」だということをもって、その条件の必要性を相対化しています。
しかし、たとえば「第五死刑正当条件」は「第二死刑制度正当適用条件」より導かれるものであって、これはもともと「第二生命正当管理条件」さらに遡れば、「生命管理に関する唯一正当な主体は、当人である」とする「生命に関する第八公理命題の真理性」に至るものです。

したがって、「国家(契約国家)において政治の運営が円滑に成されるために成立しておくべき必要条件。」ではなく、第八公理命題を担保する中心的な条件であったはずです。
これを後退させてよいというのであれば、せっかく「契約国家」を想定して組み立てた理論を、根底から覆すものといえます。
それはすなわち、理論の独自性を完全に失わしめることを意味します。


これを避けるには、第八公理命題を可及的に担保しうる「次善策」を講じるか、あるいは「民主主義国家日本」での適用をあきらめるかのいずれかしかありません。

前者として考えられるのが、民主主義によって決められ、かつ維持されている制度たる死刑制度は民主主義的基盤が存在し、それを拒絶することは正当性を有しない(民主主義的過程において「事前承諾が擬制される」と構成する)、ということです。

ただし、このような考え方は、「公理」や「事前承諾」という概念こそ用いないものの、「罪刑法定主義の民主主義的機能」という概念とほぼ同義であり、やはり、理論の独自性は失われるでしょう。


そうなると、やはり、「民主主義国家日本」においての適用は断念するしかありません。
つまり、この理論から客観的に導かれる帰結としては、「契約国家においては死刑存置が必要かつ正当性を有する」が、「民主主義国家日本においては、必要であるが正当性を有しない」となるでしょう。

ここで、「民主主義国家においても正当性を有するとする」ことはもちろん可能です(私見では、それが妥当だと考える)。
ただし、それは決して「生命に関する公理命題」からの論理的帰結ではなく、価値判断に基づく(いわば既存の議論の枠組みにおける)死刑存置論と変わりはありません。


理論の独自性を維持するのであれば、死刑廃止論に至ることを是とすべきです。
その上で、「契約国家日本」へ移行するための理論を新たに構築すべきと思われます。
 

まあ、つまらんことですが、一言。

 投稿者:Eagle  投稿日:2008年 9月22日(月)16時00分33秒
返信・引用
  【 死刑正当論(公理命題死刑論) 】ー「契約主義哲学」からの提言―
第二章・死刑正当の論理
一、「死刑制度の制定と運用」の必要性
『4』
(ヘ)
の部分。以下引用。


>>「仮に『親』が〝死刑反対論者〟である場合」において、
1、犯人から(父)親に、
  「聞くところによるとお前は死刑反対論者だそうだな。だったらオレがこれからお前の子供を殺して捕まっても、お前はオレが死刑になることに反対しオレの命は守ってくれるな」
  と言われた場合、
2、親としては、
  「そうだ、オレは死刑反対論者だ。したがってお前がうちの子を殺してもオレはお前の死刑には反対しお前の命は守ってやる」
   と言わざるをえないはずであり、
3、それを言ったその瞬間、そのやりとりをそばで聞いていた子供は、
  「お父ちゃんはボクの命よりも犯人の命の方を大事にしている。ボクはお父ちゃんに見捨てられた」
   と感じるはずである。
4、こうした
 イ、犯人の命よりも人質の命を軽んじる選択。
  すなわち、
 ロ、『善良なる人間の生命の尊厳よりも邪悪なる人間の生命の尊厳を重んじる』などという「人の生命に対する価値観や社会正義感の倒錯した選択」。
  が「社会的人情的選択として正しい選択でありうるはずがない」のは常識的社会人ならば当然的に納得できる判断のはずである。<<


日本の刑法には、正当防衛(刑36)・緊急避難(刑37)という概念があることをお忘れなく。
上記のような犯人がある人物に、その親族の殺人を仄めかすようなことを言った時点で、
脅迫罪(刑222)が成立し、また、例えば殺人行為が正当防衛・緊急避難によって頓挫した
場合には、殺人未遂罪(刑203)に問われる可能性が否定できませんので、お気をつけて。
 

掲示板完成

 投稿者:takemotomamoruメール  投稿日:2008年 9月 7日(日)18時00分32秒
返信・引用
  死刑正当論の掲示板完成

http://www1.odn.ne.jp/shikei-ron

 

レンタル掲示板
/2